「山本幸三を励ます会」 雑誌・リベラルタイム2月号に掲載されました
■ 山本幸三レポート シャル・ウィ・ダンス」と「ミリオンダラー・ベイビー」の語るもの〜
 

『映画「シャル・ウィ・ダンス」と「ミリオンダラー・ベイビー」の語るもの』・・・山本幸三

       

1. 映画「Shall We Dance?(シャル・ウィ・ダンス?)」と「Million Dollar Baby(ミリオンダラー・ベイビー)」を続けて観た。全く違う傾向の映画だが、この二つを比べてみると、現代アメリカ社会の病理現象がよく分かる気がする。そういうところが、アメリカ映画の面白い点だ。その時の価値観、時代思潮、時代精神といったものを体現しているのだ。私は、英語の勉強とアメリカ人が今何を感じているのかを知るために、時々ハリウッド映画を観に行くようにしているのだ。

2. 「Shall We Dance?(シャル・ウィ・ダンス?)」は、ご存知1996年制作の日本映画「Shall We ダンス?」のリメイク版である。オリジナル版は、周防正行監督、役所広司、草刈民代主演で大好評を博した。この時、ダンスの指導・演出をやったのが、「わたり としお」さんで、ウッチャン・南ちゃんの番組で芸能人ダンスクラブの先生をした人。彼は、私の東大ESSの後輩なのだが、6年程前から消息不明になり、どうしたのだろうかと気を揉んでいたところ、昨年本屋で「リセット」という彼の著書を偶然見つけ、それで再会することが出来た。聞けば、彼は、ひどい「うつ病」になり、5年間壮絶な闘病生活を送ったそうだ。幸い、よい医者とピッタリの薬に会い、救われたということだ。彼の話をすると、それだけで一原稿になってしまうので、別の機会にすることにして、本題に戻る。
  実は、私自身も、この映画の10年程前にダンススクールに通い、「Shall We ダンス?」の世界を体験したことがある。ある人に誘われ、お昼休みに役所を抜け出し、六本木の「鳥居ダンススクール」に週2回通った。1年後には、タンゴで発表会にも出たのだが、その後「日米円ドル委員会」が始まり忙しくなってきたため、足が遠のいてしまった。でもあの時の、世間的には気恥ずかしさを感じつつも、綺麗な先生と踊れる興奮、ステップが上手くいった時の満足感といったダンスの楽しさは、今でも忘れられない。役所広司の気持ちがよく分かった。これがハリウッドでリメイクされたとあれば、なお更観に行かない訳にはいかないではないか。

3. リメイク版は、監督がピーター・チェルソム、主演男優がリチャード・ギア、主演女優がジェニファー・ロペスと豪華キャストである。オリジナル版では主役は、ボタン会社の経理課長という役柄であったのに対し、本作では遺言書作成専門の弁護士との設定である。彼には、地位もカネもあり、美人の妻と素直な二人の子供達、正にアメリカン・ドリームの権化のような存在である。でもその彼にして、何かが足りないのだ。
  仕事はお決まりの手順を繰り返すだけ、つらい通勤ラッシュに耐え、家族は、それぞれ皆忙しくしていて一緒に過ごす時間も無い。その彼が、電車の窓から見た女性の姿に引かれ、思い切ってダンススクールの門をたたくことから、人生が一変するのである。突然、モーション、音楽、仲間たち、そして情熱が入り混じる、全く新しい世界へ突入する。人が普段は隠している夢を追求することの喜びを、再発見するのである。そのことによって、夫婦関係が一時揺らぐが、やがて妻も子供達も彼の夢の大切さを理解し、メデタシ・メデタシ、ハッピーエンドとなる典型的なハリウッド映画である。
  この家族像こそが、現代アメリカの理想的な姿なのであろう。弁護士という安定した職業に就き、美しくキャリヤウーマンでもある妻を持ち、賢い子供達にも恵まれている。日常生活にちょっと飽き足りない面があったが、社交ダンスという新しい趣味を持つことによって、ロマンチックでクリエイティブな情熱を見出し、倦怠気味だった結婚生活も再生することが出来た。アメリカ人は、こういう人生を送ることが出来るのだと、言っているようだ。

4. この映画で、日本とアメリカの考え方、文化の違いというのも感じさせられる。例えば、日本では、「公然と親密に寄り添うダンスは、一種のタブー」だが、アメリカでは、それは当たらない。しかし、アメリカのタブーは、「アメリカン・ドリームを手にしている者が、手を上げて、"僕は不幸なんだ。"などと言う資格は無い。」という考え方だそうだ。
  また、日本版ではあり得ないシーンが、最後にダンスの先生の送別パーティに行く前に、旦那がバラの花を持って、奥さんを迎えに行くという場面だ。何事も、夫婦同伴でなければ許されないアメリカ社会のルールを貫徹するために、無理やり導入されたのだろう。日本版だと、先生との別れという焦点がボケてしまうので、考えられないシーンだろう。アメリカ人の旦那さんは、大変だ。

5. さて、ハッピーエンドの「シャル・ウィ・ダンス」と全く違った展開をするのが、「ミリオンダラー・ベイビー」である。
  トレーラー育ちの不遇な人生の中で、自分が一つだけ誇れるのは、ボクシングの才能だけ。その思いを胸にミズーリーの田舎からロサンゼルスへやって来た31歳のマギー(ヒラリー。スワンク)。彼女は、名トレーナーのフランキー(クリント・イーストウッド)に弟子入りを志願するが、フランキーは、「女性ボクサーは取らない。」と言ってマギーをすげなく追い返す。だが、これが最後のチャンスだと知るマギーは、フランキーのジムに入会し、黙々と練習を続ける。そんな彼女の真剣さに打たれ、親友で助手のスクラップ(モーガン・フリーマン)の助言もあって、ついにフランキーは、トレーナーを引き受ける。彼の指導の下、めきめきと腕を上げたマギーは、試合で連覇を重ね、瞬く間にチャンピオンの座を狙うまでに成長。同時に、二人の間には、同じ孤独と喪失感を背負って生きる者同士の絆が芽生えていく。だが、最後に落とし穴が待っていた。チャンピオン戦で、敵の汚い反則技によって、ちょっとした隙を突かれ、全身麻痺にされてしまうのである。やがて、壊疽で片足も失い、絶望の中で、マギーは「自分を殺してくれるよう」フランキーに頼む。フランキーは、悩みに悩むが、「もはや、自分がやるしかない。」と決心し、マギーの生命維持装置を外す。マギーは、フランキーが彼女に与えたニックネーム「モ・クシュラ」が、「私の愛しい人」という意味であることを死に際に初めて知って、喜びの涙を浮かべながら眼を閉じていく。
  ハリウッド映画には珍しい、重く悲しい終わり方である。この映画は、今年のアカデミー賞の作品賞、監督賞、主演女優賞、助演男優賞を総なめにした。それだけ、アメリカ人にとってもショッキングな内容だったのだろう。クリント・イーストウッドが監督兼主演を演じた。

6. 私は、この映画を観て、今日のアメリカ社会の負の部分が抉り出されているような感慨を持った。アメリカでは、社会の底辺で生まれ育った人間が這い上がるには、ボクシングとか野球、バスケットといった自分の肉体をかけた特殊な能力を開発するしかないのである。しかし、肉体だけが頼りであるだけに、一旦ケガでもすれば、それで全てが失われる。
  マギーは、連勝して得た金で母親に家をプレゼントするが、母親は意外にも喜ばない。現金をくれればよかったのにと文句を言う。金は隠せるが、家は隠せない。家を持てば、生活保護も医療保護も打ち切りになるからである。兄は刑務所に入り、妹も違法に生活保護を受けているという家族だ。彼等は、マギーが全身麻痺になったと聞いて、彼女が死ぬ前に家を売ろうと、ペンをマギーにくわえさてサインさせようとする。さすがにマギーは、これを拒否し、彼等を追い払ってしまう。マギーは、家族を失い、天涯孤独になってしまう。
  マギーが好きだったのは父親だが、その父親について忘れられないのは、マギーが可愛がっていた犬が年老いた時、これを山に連れて行き、捨ててきたことだ。日本の「楢山節行」か。マギーは、フランキーに父親のイメージを重ね合わせており、自分もこの愛犬のように、"山に連れて行って欲しい"と願うのである。一方、フランキーも、実の娘のことを気遣っているのだが、何度手紙を書いても、宛先不明で戻ってくるだけ。次第に、マギーが自分の娘のように思えてくるのである。家族の間、父と娘の間などが上手くいかないというのは、現代アメリカでは普通のことなのであろう。

7. クリント・イーストウッドは敬虔なクリスチャンだそうだが、この映画でも、キリスト教が重要な役割を演じる。毎日、教会に顔を出し、神父に議論を吹っかけ、からかっているフランキーだが、マギーの願いを聞いて「死の手助け」をすべきかどうか悩んだ時、最後に相談するのは教会の神父である。神父は、当然、「そんなことに手を貸してはいけない。それをすれば、自己の破滅につながる。」とフランキーを諭すが、もはやフランキーの心は決まっていた。やってはいけないと分かっていながら、やらざるを得ない、何と不条理なことであろうか。こんな時、宗教は、本当に助けになるのだろうか?難しい問いだ。日本では、吉田松陰がこう言っている。「かくすれば、かくなることと知りながら、止むに止まれぬ大和魂」と。どうも、こういう不条理は、大和魂だけの専売特許ではなさそうだ。

8. クリント・イーストウッドは、またアイリッシュ系アメリカ人だそうだが、これもこの映画の一つの大きなポイントとなっている。マギーに「モ・クリシュナ」というアイリッシュだけに分かるニックネームを送るが、これがアイリッシュに大受けする。世界中どこにもアイリッシュが居るのである。アイリッシュは、アメリカ移民の中でも格の低い民族として扱われてきた。底辺で肩身の狭い思いをしながら、アメリカ社会で生きてきたのである。だからこそ、マギーがボクシングの世界でアイリッシュのニックネームを付けて連戦連勝するのを見ると、民族の血が騒ぎ、熱狂するのである。かつて、ケネディが初めてのアイリッシュ系大統領になった時、アメリカ国民自身が驚いたのを思い出す。アイリッシュに対する偏見は、まだ残っているのである。

9. 一方で、恵まれたアメリカン・ドリームを実現する人達が居れば、他方で、生まれつき貧乏で偏見に晒され、必死に這い上がろうとするが、結局は上手くいかない人達が居る。これが、アメリカなのだ。大多数は、後者に属するのだろう。
 かつては、後者の人達も人並み以上の努力をすれば、豊かになれると思われていたが、今は無理だ。余りに格差が開き過ぎてしまった。アメリカン・ドリームは、過去の遺物なのだ。(ブッシュ政権は、いよいよこれを進めている。)。そんなメッセージを、この映画は、伝えているようにもみえる。
 ブッシュの減税政策や医療制度改革案は、「自己責任」や「民営化」という名の下に、金持ちはいよいよ豊かに、貧乏人はいよいよ苦しくなるという政策だという批判が強い。どこかの国も、この真似だけをしているように思えるが、いずれは「ミリオンダラー・ベイビー」のような世の中になっていってしまうのだろうか。


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