映画「JOHNEN  定の愛」を観て!  
  2008.6.9
衆議院議員  山本幸三


1 杉本彩主演のご存知「阿部定事件」をモチーフにした話題作である。監督は、望月六郎。「阿部定事件」はこれまで何度も映画化されてきたが、今回の作品は、現代の人物に阿部定や石田吉蔵が蘇るという奇抜な設定で事件の猟奇的色彩を薄め愛とか情念にスポットを当てようとしており、なかなか面白い試みで評価出来る。一般的には、杉本彩扮する阿部定と中山一也演じる石田吉蔵の官能的で美しいセックス・シーンが見せ場なのであろうが、私は少し別のことを考えながらこの映画を観ていた。それは、「何故、今、阿部定なのか?」という問いだ。その問いは、前回の映画評「“ノーカントリー”と“大いなる陰謀”を観て」に通じるものであり、今一度この映画を通して考えてみたいと思うのだ。

2 いわゆる「事件」とか「歴史的事実」というものは、人々がそれをどう受け取り解釈するかの「意味の文脈」を離れてはあり得ない。そうした「意味づけの文脈」を究極において制約しているのは、時代精神とか時代風潮とか、いわれるものである。歴史は繰り返すといっても、「事件」や「事実」が繰り返すのではない。「意味の文脈」が繰り返すのである。
  そうした意味で、「阿部定事件」とは一体何だったのだろうか?これを理解するには、その時の時代背景を知らなければならない。「阿部定事件」が起こった1936年(昭和11年)は動乱の年だった。この頃、経済は疲弊し、地方では娘を娼家に売り渡すということが頻繁に行われていた。政治や行政、軍部さえも腐敗し何ら有効な手立てを打ち出せない。社会にはどうしようもない閉塞感が蔓延していた。そうした中の2月26日、陸軍の過激な国粋主義の青年将校達が「昭和維新」を旗印に決起、重臣を殺害し、首都の中枢部を4日間に渡って占拠するという我が国近代史上初のクーデターを起こしている。いわゆる「2.26事件」である。陸軍内部の派閥対立で収拾に手間取る中、昭和天皇は終始「反乱軍」と主張、鎮圧を求めた。青年将校らの野望はついえ、東条英機らに代表される統制派が陸軍の主流となり、これ以降、日本はファシズムへの道をひた走ることになる。翌1937年7月7日には盧溝橋事件が勃発し、日中戦争が開始されるのである。
  こうした重苦しい時代背景の中1936年5月18日、東京・中野区の「吉田屋」という鰻料理店の仲居であった阿部定(当時数えで32、満で30歳)が、荒川区尾久の待合茶屋で料理屋の主人である石田吉蔵(数えで42歳)と不倫密会、性交中に赤い絹の腰ひもで吉蔵を絞殺しその局部を切り取るという事件が発生した。世にいう「阿部定事件」である。事件の猟奇性ゆえに、事件発覚後及び阿部定逮捕(同年5月20日)後に号外が出されるなど、当時の庶民の興味を強く惹きつけた事件である。世間の人々は、社会の抑圧を吹き飛ばすような「阿部定事件」にかっこうの息抜きとして飛びついたようだ。当時の新聞の中には、阿部定のことを“世直し大明神”と呼んだものさえあったという。当時はこの事件がなければやりきれないような暗澹たる時代で、それ故に、当時のマスコミはセンセーショナルにこの事件のことを報じたようだ。

3 私が懸念するのは、“今現代”こそが「阿部定事件」が起こった1936年前後の日本の状況に近付いてきているのではないかということだ。
  これまで何度も指摘したことだが、”現代の日本“では、グローバル化や市場経済化によって社会の凝集性が損なわれ、社会的な紐帯が断片化しつつある。「市場を、市場を」というスローガンの下、日本人にとってあたかも国家や社会といったものが消滅したかのような冷淡な環境が作られつつある。そして社会の矛盾は、個人の生き方によって私的に個人的に解決することが強要されるようになった。全てのリスクは個人が直接背負わなければならないような状況に追い込まれているのである。そうした中で、政治も行政も弱体化、腐敗の連鎖から抜け切れず、社会は閉塞感に覆われている。一般大衆の不信と不満は極限に達し、一触即発の状況にある。社会学でいうアノミー的状況、すなわち社会的基準や価値が見失われたり混乱している状態が出現しているのである。最近の年金記録漏れ、自動車関連の暫定税率問題、後期高齢者医療制度などに見られる「国は冷たい」という意識、「国も社会も自分達のことを考えていない」という意識は、そのことをはっきりと示しているのではないか。「”ノーカントリー“や”大いなる陰謀“」と通じるというのは、このことである。今や、国家とか社会秩序、価値観といったものが崩壊してしまいつつあるということである。
  こういうアノミー的状況の一方で、「愛国心」、「国益」、「国家の品格」などという保守的な価値の復権を訴える動きが目立ってきた。ITの発展によって、いつでも、どこでも個人の行動を監視出来るという無気味な社会にもなりつつある。
  こうした社会風潮が、形は違えども1936年ころの日本の状況に酷似してきていると思うのは、私の杞憂に過ぎないのだろうか。

4 阿部定が現代に蘇ることの意味合いがこういうことにあるとすれば、極めて憂慮すべき事態だ。21世紀におけるファシズム前夜ということを暗示するからである。ただファシズムといっても、戦前の軍国主義そのものが再現する訳ではない。似たような思考形態をもった一種の政治宗教が出現するだろうということである。
  この時代思潮のことを、政治学者・永井陽之助は「グノーシス主義」と呼んでいる。「グノーシス主義」とは、キリスト教の異端として起元2世紀ころ登場した一種の神秘主義的な思想のことである。グノーシス派の教義によれば、我々が日常、経験する事件やパーセプションは、一つの幻であり、仮の見せかけのものに過ぎない。その基底には、凡俗の知りえない、ある本質的なパターンが隠されている。実は、その本質的なパターンによって、この世界も歴史も決定されている。この宇宙の謎を解き、歴史の動向を探る鍵を明かすのが、選ばれた一部エリートの知的任務であるというのである。
  マルクス・レーニン主義しかり、ファシズムしかり、あるいは最近流行の新興宗教や霊能者ブームしかりである。
  現代グノーシス主義がどのような形態を取るにせよ、社会の閉塞感を打破し精神の巨大な空白を埋めることに成功して大衆の心を掴めば、歴史を大きく動かすことになるのである。余程の「英知」や「慎慮」の能力がなければ、これに抵抗することは難しい。現代日本には、その危険な素地が作られつつあるというのが、私の懸念であるが、いかがであろうか。
  その意味で、阿部定は新しい形の「グノーシス主義」の先兵になりうる。今日の“世直し大明神”として、日本社会をどう方向付けるのか、興味深々である。

5 杉本彩は、10代のころから阿部定にある種の憧れを抱いていたという。「人間はずるいところがあるはずなのに、定にはそんな部分が一切なく、少女のように純真に相手の魂を求める。どうしたらそこまで人を愛せるんだろう。何が彼女をそこまでさせるんだろう。そんなに濃厚に、能動的に人を愛せる女性に一種の崇拝があった。」というのだ。撮影中に、阿部定が自分に憑依したのを感じたそうだから、その演技は迫真に満ちている。とくに眼が活きていた。スクリーンの中からなのだが、実際に射すくめられているように感じたのは、私だけだろうか。多くは濡れ場だが、その演技力、セリフの言い回しには文句の付けようがない。杉本彩がこれ程の演技派だったとは、驚きであった。相当の工夫を凝らしたに違いない。事実、ある取材で次のように語っている。「撮影に際しては、いかにエロティックかつ美しく見せるか、自分を客観的に見て、ちょっとした体の動きや角度なども、計算し尽くさなくてはいけません。今は見せるべきか、そうでないのか。どこまでどう見せるとエロティックなのかも、すごく考えました。同時に、我を忘れて愛の行為に没頭している”気持ち“を乗せていかなくてはいけない。ものすごく難しいんです。」と。
  それに対し、男2人の相手役の演技はとても頂けなかった。実際に阿部定と関係もあり彼女のスポンサーでもあった大宮五郎(当時名古屋の市会議員で商業高校の校長であったが、この事件のため職を失う。)役も、石田吉蔵役も演技力不足で、セリフの言い回しもこなれていなかった。これでは、杉本彩の演技が過剰演技に見えてしまう。誠に残念なことだった。
  日本人に演技力がないのは、日本に本格的な演技指導を行う学校がないことにもよるのだろう。アメリカでは、BS放送でお馴染みのアクターズ・スタジオなどという本格的に演技や監督業を教育する学校が沢山あって、切磋琢磨している。日本ではそうした演技教育の場がないので、別ジャンルの音楽家などが俳優としても幅をきかすことになるのだ。決して誉められたことではない。
  唯一演技らしい演技を見せるのは、吉蔵の妻オトク役を演じた高瀬春奈くらいである。オトクが定と吉蔵の入浴場面に乗り込んで来て、海岸で定と格闘しあう修羅場は見ごたえがあった。本物の俳優同士のやり取りと感じる唯一の場面だった。高瀬春奈は、杉本が切望したキャストだというが、むべなるかなである。
  その他で面白かったのは、名前が分からないがメイド役の演技であった。シェイクスピアのピエロを思い起こさせる振り付けで、その演技力には着目すべきものがあった。

6 極限においては殺されることも喜んで受け入れるし、相手を絞殺し局部まで切り取って後悔しないというまでの「愛」とは、一体何なのか。杉本は、「局部まで切り取って持ち歩く行為は私も理解出来ない。ただ、本当に深く、苦しいまで相手を愛したことがある女性なら、一歩間違えばそれぐらい起こしかねないことは理解出来ますよ。」と語っているが。
  「愛するということ」は、人間の持つ最大の「自由意思」の発露だが、一旦「愛する」ことになると、今度はお互いに「最大の犠牲と最高の奉仕」を求めるようになるという不条理を内包する。究極的には「死」をも要求する「愛」というものに、どうしたら積極的な意味合いを見出すことが出来るようになるのだろうか。
おそらくそれは、愛する二人が作り上げる「融合」、「共同体」が社会に対しポジティブな関係を持っているか、そうでないかによって決まるのではないか。単に「愛」の強さとか深さだけでは決まらないのではないか。
「自分以外の人間と融合したいという欲望は、人間の最も根源的な熱情」(エーリッヒ・フロム)だが、その「融合」がネガティブな媒介、つまり不安や心配、憎悪のようなものを接着剤としているとしたらどうなるか。そこに成立する共同体は、とりとめのない感情と同じように、焦点の定まらない、もろくてはかない共同体にならざるを得ない。だからこそ、「死」をも簡単に受け入れるしまうニヒリズムに陥ってしまうのではないのか。
  映画の中裁判の場面で、哲学博士が登場し次のように語る。「幸か不幸か、ゆえにこの世には男と女があり、互いの孤独と不安を体と心とで慰め合う事によって生きることに耐えようとする。そこにヒトは、愛を見出すという。」、「愛という言葉に実態があるのか、はたまた幻覚じみた錯覚なのか、その答えは、ヒトそれぞれで出すものなのでしょう。」と。定と吉蔵の「愛」が「孤独と不安から逃れるためのもの」だったとすれば、誠に不幸なことだ。何故なら社会との関係性を失っては、人間は生きていく意味を見出すことが出来ないからだ。
  しかし、このような他者とのつながりの弱い無定形なアトム(原始)化という現象は、今まさに日本国内に急速に広がりつつある。これもまた、グローバル化と市場経済化がもたらしたリスク社会の産物である。このアトム化こそ、戦前に人々を全体主義運動に奔らせ、その支配に慣れさせる基礎になったものであることを忘れてはならない。
  定と吉蔵の「愛」を、社会との関係を断ち切ったネガティブなものにするか、それとも社会的関係性を有したポジティブなものにするか、脚本家と監督は、相当悩んだようだ。そして、明確な結論を出す。それが、最後のシーンである。杉本彩が胸に赤子を抱きしめてあやしながらフィナーレとなるのである。その伏線として裁判官が判決を申し渡した後、「個人的に訪ねたい・・・殺しだけではあきたらず、何故、石田の陰茎を切り取らねばならなかったのか?」と問うたのに対し、定にこう答えさせている。「あら、あれは、オチンチンなんかじゃありませんのよ、あれは、あたしとあの人の赤ん坊なんです、あたしたちの愛の結晶なんでござんすよ」と。赤子の存在ほど、二人の「愛」が社会的関係性を持ったものであることを雄弁に語るものはあるまい。ここに、定と吉蔵の真の意味ある「愛」が結実するのである。
  これこそが、本作品がこれまでの「阿部定映画」とは全く違うものであることを示している本質であると私は思う。これによって猟奇趣味とかエロ・グロ、ポルノとかいったものから上質の作品にアウフヘーベン(高められて)されているのである。こんなことを考えながら私はこの映画を観たのだが、皆さんも是非鑑賞されて、「愛」について考察されたらいかがだろうか。


(以上)

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