副大臣繁盛記(その1)  衆議院議員 山本幸三

 

1. 2006.9.27に経済産業副大臣に就任して以来、お陰で忙しくも充実した日々を送らせてもらっている。まず省内幹部を集めて副大臣と政務官の引継ぎ式があり、私は「今こそ経済産業省の知恵と政策力を発揮する時だ。先見性と創造力で右に出るものはいないのだ。」と檄を飛ばした。それから暫くは挨拶回りと各局の概況説明があり、一月後の10月26日には四国の松山とその半島の先にある伊方という所に出張することとなった。伊方町には四国電力の原子力発電所があり、そこで事故が起こったという想定で原子力総合訓練が行われたのである。この訓練は内閣全体で行う大掛かりなもので、対策本部長は内閣総理大臣だが、私が現地対策本部長となったのである。

10月25日の夜に松山入りし一泊、翌26日朝6時にホテルをパトカー先導で松山空港に向かい、空港で軽い朝食をとった後、中部方面陸上自衛隊の大型双発ヘリコプターで現地伊方町に乗り込んだ。現地到着後直ちに前日から詰めていた原子力保安院次長から説明を受けた後、「これから私が指揮を執る。」旨宣言、現地対策本部長としての仕事が始まった。まず、伊方町長、お隣の八幡浜市長、愛媛県副知事等に挨拶、現地での打ち合わせ会議を開いてから、官邸とテレビ電話会談。安倍総理から「今後の措置は、現地対策本部長に一任する。」との指示を受け、最高司令官となった。シナリオ通りとはいえ、「これが現実のものだったら大変だろうな。」と最高指揮官の孤独さと緊張感というものを感じた。幾つかの会議や避難民の慰問なども行った。東海村の事故の後整備されたという自衛隊の放射能除去車両というものも見た。その後シナリオは、事故原因が解決され終息に向かう。改めてテレビ会議で、総理代理の保安院長に報告、緊急事態解除宣言が出て訓練は終了した。

原油価格の高騰やCO2削減の観点からも原子力発電は必須なのだが、そのためには「原子力発電は安全なのだ。」という確信を与える必要がある。その意味でこの訓練は極めて重要だといえるだろう。

2. 四国の経済産業局長から幾つか面白い話を伺った。一つは徳島の上勝町という人口2千位の小さな町が取り組んでいる新規ビジネスのことだ。町が音頭を取って会社を作り、住民が「葉っぱ」を集めてビジネスにしているのだ。「刺身のつま」といわれる葉っぱがあるが、同じように他の料理でも葉っぱを付けることによって雰囲気を出そうというものだ。紅葉とか銀杏とかイチジクの葉っぱなど何でも使える。これがビジネスとして大当たりし、お年よりは嬉々として葉っぱ探しに励んでいるとか。月に100万円も売り上げる人もいるという。孫にマンションを買って上げたと自慢するお年よりもいるそうだ。局長の話では、ここのお年よりは病院に行く暇が無いそうだ。医療コストの削減にも貢献しているということだ。こういう地域資源を活用したビジネスを支援するための法案を経済産業省は今準備中である。この話を聞いてから、食事するたびに料理にどんな葉っぱを使っているか気になるようになり、料理が一層楽しめるようになった。皆さんも、これから気を付けてみられたらいかがだろうか。

その他、映画の舞台になった土地のマップを作り観光資源にしているとか、夕日が美しいことを売り物にしているとか、各地で工夫を凝らしているそうだ。地域が自ら立ち上がろうとする意欲を大事にし、これを支援しながら新しい地域作りを実現していければと思っている。

3. 副大臣の役割として、各国からのお客さんを迎える仕事がある。イラクの石油大臣が来るので副大臣に昼食会を催してもらいたいといわれ、早速受け入れた。シャリスターニさんという方で、なかなか数奇な運命を辿った人だ。彼は、カナダで核化学の博士号を取りイラクに戻るのだが、あのフセインに核開発に携わるように要請されても、これを拒否し続けた。結果、捕らえられアブ・グレイブ刑務所に放り込まれる。10年捕われの身であったが、第一次湾岸戦争の時、ドサクサに紛れ脱走して、シリアで亡命生活を送る。そして今回フセインの失脚とともにイラクに戻り、マリキ首相から石油大臣に抜擢されたのである。これだけの信念を持った人だけあって、大変魅力的な人物だった。

「イラクは今混乱しているが、マスコミは悪い所ばかり見ている。事態は着実に改善している。これを加速するためには石油収入を上げなければならないが、パイプラインや船積み施設が破壊されておりこの修理が必要だ。その為の円借款を要請したい。」というのが先方の願い。これに対しては我々も協力する姿勢で円借款供与も決めているのだが、事務方から聞くとイラク側の手続きが遅れているとのこと。そこで私から、「手続きが遅れているようだが、どうしてか?」と質したところ、イラク側は「とんでもない。我々の準備は全て整っている。遅れているのは日本側の方だ。」と思わぬ反応。そこで事務方に確認すると、確かに日本側でコンサルや石油会社の選択で滞っている面があるとか。私は直ちに「1〜2週間で結論を出すように。」と指示したところだ。やはり直接話をしないと、誤解が解けないままで国益を害することがあることがよく分かった。

イラクの他、ガーナ、ラオス、インドネシア、アブダビの石油大臣ないしは商業大臣といった方々がみえた。日本にとって石油や天然ガスの権益をどう確保するかは死活問題なので、これらの国々との関係を大事にしなければならないのだ。その意味で私の役割も大きいものがあると自負しているところだ。

4. 11月に入って6日の夕方アメリカに飛び立った。サンフランシスコ近郊のシリコンバレーで開かれる「対日直接投資を推進するためのセミナー」で講演するためである。小泉前総理が5年で対日直接投資を倍増するとの方針を打ち出し、安倍総理もこれを継続してもっと具体的に「2010年までに対GDP比5%にする」と公約した。現在GDP比2%強位なので倍増するということには変わりない。これを実現するために各国でセミナーを開いてきており、今回アメリカのシリコンバレーでということになった訳である。

6日の夕方6時の飛行機に乗ると、日付変更線があるのでサンフランシスコには6日の朝10時過ぎに到着する。空港から直ちにカリフォルニア大学バークレー校に向かい、旧知のスティーブン・ヴォーゲル教授やペンペル教授、ダイスマン教授らと昼食を取りながら議論した。いずれも優れた日本研究者で、かってのリビジョニストなどでもなく極めて冷静でバランスの取れた識見の持ち主である。彼等との議論を通じて感じたのは、アメリカの学者の関心が次第に中国に移りつつあるということだ。スティーブンの父親で私がハーヴァードでお世話になったエズラ・ヴォーゲル氏も今は中国にいるとのことだった。日本人は余り気が付いていないが、世界の目は最早中国に向かっているのである。日本は、国際社会に貢献出来るのだというメセージを余程強く送らなければ誰も相手にしなくなるという危機感を持たなければならない。

バークレーでの昼食会を済ませると少し南にあるGMとの合弁で作ったトヨタのNUMMIという工場を見学に行った。GMが閉鎖しようとした古い工場を使いトヨタ式経営を教えようという試みである。かって日米自動車摩擦が激しかった1982年頃、トヨタが考えた摩擦回避の手段でもあった。この目論みは見事に当たり、GMはここでトヨタ式生産形態を学び自動車摩擦は沈静化した。

しかし、今またアメリカの自動車産業は危機に陥りつつあり、今後の展開は予断を許さない。そのことを考えると、どうしても見ておきたかった工場である。

3時過ぎに到着したら幹部総出で迎えてくれ、3時半に2交代目が終わるのでまず見学をということで、工場内を案内してもらった。古い建て屋を少しの無駄も無くフルに活用するというトヨタならではの配置であった。多くの工程をモジュール化し職員が作業し易くしているのが印象的だった。私の友人で今トヨタ本社の副社長をしている豊田章男さんもかつてここで勤務していたことがあった。この努力で今回も摩擦を回避出来るかどうか、微妙なところだ。

この後も面白い所を訪ねたのだが、それは次回お話することとしたい。

(以上)


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