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幸ちゃん物語
第13話 (大蔵省時代編)
武者修行時代
〜アメリカ人に「乾杯」を強要〜
アメリカ人に「乾杯」を強要
さて、パートナーも揃い用意万端整って、二度目のアメリカに旅立った。今度は、アメリカ社会にできるだけ深く食い込もうと考えていたから、私は何でも積極的に挑戦することにした。
ビジネス・スクールは、一度社会で働いた経験のある人を優先的に採るので、既婚者が過半数を占めていた。よく見ていると、既婚者は未婚者にはわからないように、お互いにパーティーに呼び合っている。私は、そちらのグループに属する資格がある。
しかし、パーティーに何度も呼ばれるというのは、そう簡単なことではない。
最初、一度や二度は、誰でも呼ばれる。ところが三度、四度となるとそうはいかない。
相手が、この人間は面白い。いつも新しいことをいろいろ教えてくれる。付き合うだけの価値があると思うような魅力がなければならない。
そして、相手に、招待しないと悪いなという気にさせることが大切なのだ。そのためには、呼ばれたらすぐに呼びかえることが必要だ。常に、ギブ・アンド・テイクなのである。ところがこれを、いざきちんと実行するとなると実に忙しい。
たとえば、今週金曜日に、ジョンの家に呼ばれたとする。すると次の週の金曜日には私の方が呼び返す。そのとき、ジョンの家に来ていたサムから声がかかる。続いてマイクからもかかるが、これは先に延ばしてもらう。
そんな風にしてどんどん広がっていき、そのなかから
「あのカップルは素晴らしい、ぜひもう一度呼びたいものだ」
ということになると、二度目の招待ということになっていくから、いっそう忙しくなる。
パーティーの準備は結構大変である。家内は、料理にかかりきりになるから、部屋の掃除、テーブル・セッティング、お酒の用意などは旦那の役目。会話が途切れしらけることがないように、日本の料理のこととか、写真とか、いろいろな話題を用意しておかなければならない。
アメリカ生活に慣れ、交友関係も広がってきたそんなある日、新日鉄の今井さん夫婦と仲良くなった。やがてお互いに協力してパーティーをやったほうが、効率的ということを発見したのである。料理の品数も増え、話題の面でも補い合うことができるからだ。それからはよく今井家と一緒にアメリカ人夫婦を何組か呼んではパーティーを開き、にぎやかに騒いだものである。
ビジネス・スクールの授業は結構ハードで、金曜日のクラスが終わると皆ホッとして、カレッジ・タウンで一杯やるのが常だった。
今井さんと二人でいつものバーをのぞくと、いるわいるわクラスの悪友ばかりが10名ほどたむろして、ポップコーンをつまみにビールを飲んでいる。当時、ビール一杯50セント、ウイスキー水割り一杯一ドルが相場だった。
その頃、円が上昇し始めていたので、われわれにとってはきわめて安く感じた。
そこで、二人で、
「おい、みんなビール一杯ずつ奢ってやるよ。その代わり、『ありがとうございます。乾杯!』と、大きな声で言ってくれ」
と申し出た。すると、アメリカ人が揃ってたどたどしい発音で、
「ありがとうございまーす。乾杯!」
と叫んで、ビールを飲み干す。
また、こんなこともあった。ときどき、彼らも羽目をはずしすぎてバーに長居し、逆に帰りにくそうにしていることがある。
奥さんに、言い訳しにくいからだ。そんなとき、
「おい、早く帰ってワイフにおめかしするように言って、8時に幸三の家へ来いよ。レイト・ディナー・パーティーをやるから」
と提案すると、よい言い訳ができたとそそくさと帰っていく。
奥さん方も、パーティーに呼ばれるのは大好きだから、機嫌がよくなる。後は、私たちの準備が大変だが、ワイフ同士協力すれば何とかなるものだ。こういう、突然のパーティーをよくやった。
私の家の裏は深い森で、夜になるとウサギや鹿がでてきた。朝方、鹿の姿を見ながら帰っていくアメリカ人カップルを見ていると、何とかアメリカ社会に溶け込んでいるなと実感できた。
コーネル時代のもう一つの大きな思いでは、学友会の役員に選ばれたことだ。
学友会には、会長、副会長、会計、書記の四役があるが、私は会計のポストに立候補した。もちろん、会計としてバリバリ切り盛りしてやろうという気があったが、同時に日本人が、初めてこういうポストを目指した場合、どのような反応があるかも知りたかったからである。
結果的には、日常の授業で、私が数字に強いということを皆知っていたこともあって、おおむね好評であった。
しかし、日本人に対する反感を表したものもいた。
ただ一人だが、私のメイル・ボックスに、
「お前の英語は、ここがおかしい」
という嫌がらせの手紙を書いてきた。ひねくれ者がいるのは、古今東西やむを得ないことというべきか。
この会計の仕事は大変に時間を食い、また苦労も多かったが、アメリカ人を知る上で
実に意義深いものであった。どこでも同じだが、何か催し物をした場合、最後の後方付けまで付き合ってくれる人は少ない。私は、それでも文句をいわずに黙々と務めを果たした。
そうするうちに、いつも下働きをやる人たちに固い絆が生まれ、何でも話すようになってきた。
その内容たるや、それまでの表面だけの付き合いでは、とうてい窺い知ることの出来ないものだった。
「あの男は陰険だ」
とか、
「あの女は、すぐに男を変えるのよ」
とか、極めて生々しいものが多い。彼らのこんな会話を聞いて、なるほどアメリカ人も陰ではこんなことを言い合っているのだなということがわかった。
通り一遍の付き合いなら、ここまで話し合うようなことはない。苦労のしがいがあったというものだ。
このコーネル大学時代、休暇をフルに使って、アメリカ、カナダ、メキシコに出かけ、およそ名の知れた観光地はだいたい見て回った。旅行といっても、車にテントと寝袋を積み、キャンプをしながら回るのである。これが、いちばん安上がりなのだ。
カナダのバンフ国立公園のレイク・ルイーズの水面の美しさは、この世のものとは思えなかった。イエローストーン国立公園では、温水がふんだんに湧き出ているのに、ゆで卵屋一つないのに驚いた。メキシコのユカタン半島の先コズメル島では、車がないので生まれて初めてバイクを運転した。ロックフェッラー家が再現してつくった十七世紀の町ウィリアムズバーグは、タイムマシンで運ばれた別世界のようだった。
しかし、広大なアメリカを味わいつくすには、わずか二年間の留学生活ではとうてい不可能なことだ。
有意義でほんとうに楽しいアメリカ生活だったが、私は昭和五〇年に日本に帰ってきた。
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