第27話:地方は試練の時代に ~経済のソフト化~

 

幸ちゃん物語 第27話 (北九州地域再活性化私案編)

地方は試練の時代に

~経済のソフト化~

 かつて、七十年代の終わりに、”地方の時代”という言葉がクローズアップされた。ところが八十年代に入ると、まるで潮の流れが変わったのではと思えるほどに中央集中のうねりが高まったのである。

 それを象徴的に現しているのが人口の動きだ。昭和六十年の国勢調査によれば、東京、神奈川、埼玉、千葉の四都県からなる首都圏の人口増勢は、そのほかの地域の二倍に達している。全国土面積のわずか三・六%の狭隘な地に、八十年代の前半にわが国で増加した人口四〇〇万人の四割が流れこんだのである。超過密現象が起こるのは当然だろう。

 この首都圏とともに複眼といわれてきたのが関西だが、こちらは完全に凋落した。ここ五年間の伸び率をみても、二・六%と全国平均の半分、大阪市にいたっては減少傾向さえみせているのである。

 こうした中央集中化の背景には、わが国経済のソフト化、国際化、情報化といった動きが大きくかかわっている。

 まず、経済のソフト化という現象について考えてみよう。
“近代化の時代”は、ハード・パス(人工の途上)であったといわれる。宗教改革とか市民革命、産業革命が”近代の出発”とされるが、それ以後の近代化、産業化の過程において、人々は石炭を掘り石油を汲み次第に人工化し巨大な機械・設備を使いながら、これを燃料とも原材料ともしてきた。ハード・パスとは、こういう状況を指している。

 ところで、近代化・産業化は人類に物的豊穣をもたらした反面、先進国病、資源・環境問題などさまざまな問題を惹起した。また人々は、豊かな社会のなかで真の豊かさとは何かを問い直し始めている。これからはこの悪化した人類の生存条件を改善しながら、人々の新たに求めている方向に向かって文明の質を向上させていかなければならない。それが、人間と人工との調和ある共存、つまりハードとソフトの新たな調和を求めた。ハード・パスのソフト化と呼ばれるものである。
 このソフト化のもとでは、人々の意識が均一な供給から多様な選択へと変化する。マスプロダクション(均一な商品の大量生産)を行なっていたのでは、売れ残りが生じて企業経営が立ちゆかなくなってきた。今や多品種少量生産の時代に移ってきているのだ。つまり、消費者のニーズをいかに早く先取りするか、新しい商品を提供することによっていかにニーズを開発するかが問題で、機動力のある中小企業に有利な局面が展開してきている。

 こうしたなかで、日本経済の構造変化が急速に進んでいる。

 第一に”重厚長大”産業から”軽薄短小”産業への移行である。これは、最近の就業状況をみるとよくわかる。全体として就業者は堅調に増加を続けているが、そのなかで農林業は基調的に減少、製造業は輸出の動向に大きく左右される傾向にあり、重厚長大産業の減少が著しい。これに対し第三次産業は、リースなどのサービス業や卸小売業を中心に拡大が続いている。
 とくに最近の円高の影響を受け、鉄鋼・非鉄金属、セメントなどの素材産業や造船などの重厚長大産業における中高年層の失業が社会問題になっている。同時に、高齢化の影響や女性の職場進出の拡大といった注目すべき現象も起こっている。

 第二に消費の動向である。家計の最終消費支出をみると、サービスへの支出が年々増加してきている。

 第三に設備投資の動向だが、製造業のシェアは減少し、非製造業は増加している。八五年の実績ではサービス業の設備投資額は、資本金一億円未満の中小企業だけで、大手御三家といわれた鉄鋼、化学を上回り、ほぼ自動車に匹敵した。設備投資にも、基礎素材・重厚長大からサービス・軽薄短小化への動きがはっきり現れている。

 第四に、売上高や経常利益・営業利益もサービス業は好調で、輸出型製造業や重厚長大型産業と明暗を分けている。
 
 このような経済のソフト化の時代には感性とか人間性とかが尊重され、相互のかかわり合いが重視される。そこでは情報が決定的な意味をもってくる。情報が集中するところに人間が集まり、これが中央集中の動きを加速するのである。

ヒト・モノ・カネの国際化と広がる情報格差
次に、経済の国際化ということがある。現代世界は、全面的な”国境なき経済(ボーダーレス・エコノミー)のの時代”に突入しつつある。実際、人類の歴史が始まって以来、今日ほど”国際化”の進展した時代はないだろう。戦後、アメリカのリーダーシップのもとに結実した自由貿易主義は、保護主義の台頭に揺れながらも資本主義の基本哲学として定着している。また、通信・運搬における技術革新は、地球のもつ空間的・時間的広がりを一挙に圧縮した。その結果、自由主義圏、なかでも先進国間の経済取引は、あたかも国内における経済取引と区別できないほどにまで容易になり、経済の統合が進展してきた。
 その変化は、資本市場においてとくに著しい。”カネにイロはない”というように、カネの国際移動は極めて容易であり、今日、国際資本は高い収益を求めて国境を無視して動く。”モノ”についても、ケネディ・ラウンド、東京ラウンドと逐次関税引き下げが行なわれ、貿易額は非常な拡大をみた。
 また、”ヒト”の移動も活発化しており、国境を越えて活動するビジネスマンの数は数えきれないほどである。最近では、企業活動も著しくグローバル化し、多国籍企業は生産基地、販売拠点、研究施設、本社機構などを地球的な見地から世界中に配置するようになっている。
 この国際化の時代に生き延びていくためには、質の高い情報を早めに獲得できるかどうかが鍵となる。
情報という点については、東京が明らかに優位に立つ。中央官庁の100%、上場企業の本社の50%、全国紙5社、ナショナル・ネットワークをもつテレビ局6社のすべてが東京に集中している。また、海外からの来訪者の7割強が、成田、羽田の空港を利用している。
郵政省の調査によると、東京都の情報発信量は、日本全国の86・7%にも達している。第二位の大阪府が7・8%で、この二つの地域だけで全国の94・5%を占め、残りわずか5・5%を45都道府県で分け合っている勘定になる。
このように、情報ほど地域格差をもつものはない。所得格差にせよ、東京は全国分配所得の15%、一人当たりで全国平均の1・5倍程度。逆に一人当たりの工業生産高は0・96倍と全国平均を下回る。卸売高、銀行預金、大学生数はいずれも全国平均の3倍前後を示しているが、一人当たりの情報格差の約9倍と比較すると、格差の程度はまだ小さいといえる。こうした情報格差があるかぎり、経済的要素の東京圏への集中は今後とも避けられない。
 情報はまた、それ自体の倫理をもっている。それは、情報の価値はそれがより個別的、具体的なものになればなるほど上がっていくというものである。
例えば天気予報で、「晴れのち曇、ところによってにわか雨」というのは、あまり意味をもたないが、「後楽園球場には、今晩雨が降りません」というのは、情報としては大変価値がある。実際に、天気予報サービスの会社があって、後楽園球場ではかなりの金額を払ってサービス提供を受けていたそうだ。というのも、雨が降って試合中止となれば営業面でも大きな被害を被るためで、事前に天候を予知しておくことは企業戦略のうえからも大きな意味をもっているからである。現に、そのサービスを受けることによって、従来弁当の売れ残りが7%近く出ていたのが、3ないし4%に減少したということだ。全天候型に変身した今は、天気の心配はなくなったが、情報の価値を知るうえでは面白いエピソードである。
こうした、より個別的、具体的な、価値ある情報を獲得するためには、その専門家集団が集まるところにいるのがいちばんよい。企業にとっては、関係官庁やライバル企業や金融機関などと頻繁に接触できる東京がベストということになる。昔ある金融機関が、思い切って本社を地方都市に建設したが、質の高いホットな情報が収集できず、結局本社機能を東京に戻したという話を聞いたことがある。