第22話:武勇伝 ~データと歴史が主導権を握る~

 

幸ちゃん物語 第22話 (大蔵省時代編)

武勇伝

~データと歴史が主導権を握る~

 アメリカ人を相手に有効な論陣を張るには、それなりの勉強が必要である。アメリカ人は哲学論争は駄目で、データと事実にもとづいて実際的な議論を展開しなければならない。
 例えば、アメリカ側が、「日本政府は、特定の産業を優遇している」と主張したとする。これに対して反論するときは、「いや、そんなことはない」と言うだけでは説得力がない。できれば、客観的なデータが欲しい。そして、「日本政府が特定の産業を優遇しているというが、実はアメリカ政府の方が、そのやり方は激しいのだ。第一に、アメリカ政府は、先端産業の生産物の半分以上を購入している。第二にアメリカ政府は、国内の研究開発投資額の三二%をまかなっている。これに対し日本政府は、その一・九%をまかなっているにすぎない。第三に、アメリカ政府の研究開発投資額は、例え国防関係部分を除いたとしても、日本のそれの四倍にも達するのだ」という議論ができればまず申し分ない。
 この議論に関してはこんなエピソードがあった。フリーマン元農務長官が講師としてやってきて、「日本は農産物市場を閉鎖して、けしからん。このため牛肉はアメリカの四倍、米は一〇倍といった価格だ。米の自由化をただちに行わなくてはならない」との主張をした。
 そこで、私は発言を求めた。「あなたの議論は何も知らない人が聞くと、なるほどと思わせるかもしれないが、あまりに身勝手な議論である。まず、日本の米が高いと言うが、それはなぜなのか知っているのか。日本の農業は、一戸当たりの耕作面積が狭いためコストの高い米づくりを余儀なくされているのだ。集約化も、農民の心理的抵抗に合ってなかなか進まない。ところで、こうした現状をつくり出した張本人はいったい誰なのか。戦後、農地解放を断行し農業基本法を制定したアメリカ、あなた方ではないのか。農地解放は、確かに農業の民主化を進めたかもしれないが、同時に、大規模・集約農業を困難にするという弊害も生じた。そういう点についての反省もなしに、ただ日本はけしからんというのは筋が通らない。」と反論した。
 ちょっと意表を突かれたのか、フリーマン氏は言葉を失ってしまった。その後、思い直して議論を再開したが、パンチ力が減退したのは確かだ。このように、先制攻撃をかけてみるのも効果的なやり方である。つまり”攻撃は最大の防御なり”というわけだ。
 このように私は、セミナーのたびに必ず発言するので、皆からあいつはうるさい奴だ、と思われるようになったらしい。もう自分から手を上げなくても、司会者が私に目配せするようになった。この”うるさい奴”というのは、日本ではあまり歓迎されないが、アメリカ社会では一つの勲章である。議論が感情的でなく一応論理的であれば、彼らは必ず敬意を払う。そして、対等な者として扱ってくれる。文句があっても、言葉に出さず裏であれこれ言っているのがいちばんいけない。
 今日、日本とアメリカという二つの経済大国の間で、数多くの問題が発生している割には、コミュニケーションのソフトの研究が足りない。どうすれば、有効なコミュニケーションが確立できるのか、緊急に相互で研究を進めることが非常に重要な課題になっているように思う。
 これまでの日米関係ではライシャワー氏とか牛場氏とかいった非常に傑出した数少ない個人の能力に助けられてきたという面がある。ところで、この場合、当のパイプ役となった人物には、信任の危機といった現象が生じがちだ。例えば、日本人の説得にたけたアメリカ人が、「日本人は、こう反応する。だから、ここはあまり手荒くやらない方がよい」とアドバイスしたとする。すると、その人は、「何を手ぬるいことを言っているのだ。日本に魂を売ったのではないのか」と、プロ日本とみなされ、次第にアメリカの主流からはじき出されてしまう。その人物は、アメリカの国内における、いわゆるパワー・グループに対する信任を失うことになるのである。同じようなことは、日本側でも起こってくる。
 こうしてみると、国家間での有効なコミュニケーション、また、それがうまくいかないことによる軋轢や摩擦の解消という問題は、実に気の遠くなるような困難さをはらんでいる。しかし、これだけ日本の地位が高まり、国際社会で重要な役割を果たすようになると、そのことに無関心ではいられない。われわれ一人ひとりが、ベターなコミュニケーションを目指して、少しずつ努力していくしかないのである。
 私の経験では、アメリカ人とのコミュニケーションを進めるうえで、一つの有効な手段として、歴史の勉強をしておくことである。アメリカ人は、概して歴史に弱い。永井教授に聞いた話だが、『孤独の群集』の著者で高名なデイビッド・リースマン名誉教授は、ハーバードやMITの学生の歴史知識のなさを嘆いておられたとのことである。MITの政治学の授業で、こういうこともあったそうだ。日米開戦前夜、アメリカが対日禁油措置を採ったことを知った学生が「ほんとうか。そんな事実は今初めて聞いた。石油のない日本に対して、そんなひどいことをルーズベルトがほんとうにやったのか。アドミラル・ヤマモトがパールパーバー奇襲に出たのもやむを得なかったかもしれない」と叫び、ほかの学生も同様の反応を示したという。
 その頃、私の住んでいたボストンは、アメリカでももっとも古い町の一つで、歴史的名所旧跡には事欠かない街だが、その歴史を詳しく知っているというアメリカ人も少ない。アメリカ独立戦争がどのようにして勃発したのか、どんな人物がそれにかかわったのか等々、非常に基本的知識にさえ欠けているのだ。
 私は、これらをできるだけ勉強した。例えば、有名なボストン・マラソンは、毎年四月一九日に行われるがどうしてなのか、またその由来は知っているか、と聞かれて、正確に答えられるアメリカ人はほとんどいない。そこでおもむろに、教えてやるのである。
 「一七七五年の四月十九日未明、イギリス駐留軍は、近郊のレキシントンやコンコードで武器を集めて不穏な動きをしているアメリカ民兵を叩かんとして、ボストン・コモンズ(現在は、市の公園)に集結を開始する。アメリカ人の愛国者ポール・リヴィアは、この動きをじっと見ていたが、問題はイギリス軍がチャールズ川を船で渡って行くのか、陸路で行くのかということだった。彼は、あらかじめ前者であればランプを一つ、後者であれば二つを小高い丘の上にあるオールド・ノース・チャーチの屋上にかかげ、チャールズ川の対岸の仲間に知らせることにしていたのだ。
 しばらくして、教会の屋上には、ランプが二つかかげられた。イギリス軍は陸路で行くということだ。対岸の使者はこれを見て、一目散に、レキシントンのアメリカ民兵の本部に連絡しようと馬を走らせた。ポール・リヴィア自身も馬を走らせ、その後を追った。こうして、アメリカは独立戦争に勝利したのである。これを記念して始まったのがボストン・マラソンなのだ」
 ここまで説明すると、たいていのアメリカ人はまいってしまう。会話の主導権を、こちらが握れる。そうなればこちらのものである。