第10話:武者修行時代 ~円切り上げの舞台裏~

 

幸ちゃん物語 第10話 (大蔵省時代編)

武者修行時代

~円切り上げの舞台裏~

 入省一年目の仕事で忘れられないのは、円切り上げという歴史的事件にタッチできたことである。

 昭和四六年八月一五日のニクソン大統領の声明によって、わが国の外国為替市場は大混乱に陥った。
*ニクソン大統領の声明:
ドルと金の交換の停止を発表したドル危機、ドル・ショック、ニクソン・ショックのこと。

私自身は、当初から変動相場制論者で、入省後毎晩のようにウイスキーを片手に上司の岸田補佐と激論を戦わせていた。
岸田補佐の主張は、変動相場制にすると、投機の嵐が日本の円を飲み込んで大変なことになってしまう、というものだった。
それに対し私は、先物市場があるのだから、投機はかえって安定的な働きをする。黒字の累積は、ただで赤字国に融資していることで、国民経済的には損だと強調した。
しかし、私の意見はなかなか受け入れてもらえなかった。そうこうするうち事態のほうが先行し、議論の段階を飛び越してしまったのである。

 わが国は、しばらくの間為替市場を開き続け大量のドル売りをあび、やっと市場を閉鎖。
そして、変動相場(フロート)制へと移行していった。
私の主張が現実のものとなったのだが、今でもニクソン声明の時点で、ただちにフロートすべきだったと思っている。

 この問題に関しては省内でも、種々の議論が交わされいろいろな動きがあった。マスコミや産業界では、今にも日本経済は沈没するといった悲観論が支配的だった。
今思い返してみると、ずいぶん的外れの議論もあった。だが、一つだけ確かなことは、これを契機として日本経済の国際化が始まったことである。

 暮れも押し迫った一二月一八日(土)、一九日(日)の両日、ワシントンのスミソニアン博物館で、10カ国蔵相会議(G10)が開かれた。
*スミソニアン体制:

1971年、スミソニアン博物館で、先進10カ国蔵相会議が行われ、ドルの切り下げと為替変動幅の拡大が取り決められ、金とドルの交換率は、1オンス=35ドルから38ドルへ引き上げられ(ドルは7.89%切り下げ)、円は1ドル=360円から308円(16.88%切り上げ)となり、また、為替変動幅は、上下各1%から上下各2.25%へと広がった。この固定相場制をスミソニアン体制という。

わが国からは、水田大蔵大臣を筆頭に大蔵省幹部が、悲壮な覚悟で会議に臨んだ。
大蔵省は、円切上げに関するあらゆる準備を極秘のうちに整え、待機していた。
週末だったが閣僚はすべて都内に足止め、いつでも緊急召集がかけられる体制であった。敏感な新聞記者は、息を詰めて省内の動きを注視していた。

 だが、そのなかで一つだけ落とし穴があった、それは、この種の会議では各国の利害調整に手間取るので、第一日目に結論が出ない、という予想ないしは期待である。
土曜日ということもあり、今日は早めに休んで、明日のために鋭気を養っておこう、と誰もがそう思った。実際、夕方には省内にはほとんどの人影が消えていた。

 しかし、そのなかで一人だけ勘のいい人がいた。田中敬文課長(元日本輸出入銀行総裁)である。田中課長は、
「万一のことがありそうな気がするから、お前たちは、役所に泊まり込んでくれ」
と、私たち一、二年生に指示してから帰られた。

 課長命令とあってはしかたない。
とはいうもののせっかくの週末なのに足止めをくらったのだから、面白いはずがない。課長室に麻雀パイを持ち込んで徹マンを始めたのである。

 ジャラジャラとやって、午前二時をすぎようとしていた頃だった。
突然、大臣室の電話が鳴り出したのだ。驚いて、鍵を借りに守衛室に飛んで行き、部屋を開け、慌てて受話器をとると、聞こえてきたのは英語だった。
これには二度ビックリ。
よく効くと、料金をこちら払いでよいかと言っている。OKと答えると、続いて出たのが林国際金融局次長(故人)の声だった。
 「ワシントンからだが、君は誰か」
と林さん。
私が「文書課の一年生です」と答えると、「頼りないねえ」と一蹴され、これにはギャフンとなった。
「それじゃ、文書課長に来てもらって、これからかけましょう」ということで、最初の電話は終わった。

 支給電話をとり田中文書課長は、マイカーを運転して飛んできた。
午前四時頃、ワシントンを呼び出した。すると、
「つい先ほど結論が出た。円は、一ドル308円と16.88%の切り上げとなった」
と言う。
まさに劇的な言葉が、ひっそりとした大臣室内に響いた。これが、日本の将来を決める歴史的な瞬間なのだと思うと、興奮のあまり体が硬直してしまった。

 それからが大変だった。手分けして閣僚全員に連絡し、朝8時から臨時閣議を開くことを告げる。そのための資料の作成、大蔵大臣声明の起案と印刷、新聞発表の準備等々と、文書課は、まるで蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。

 いちばん困ったのが、一ドル308円を法的に決める省令案の原稿が見当たらないことだ。何しろ、担当課の人達は帰ってしまって、誰もいない間の出来事なのである。

 偶然、私は担当者の机を知っていた。そこで、守衛室から鍵を借りて開け、課内に入り当人の机の引き出しを引っぱった。案の定、省令案がちゃんといちばん上に置いてあった。それに、手書きで
「一ドル308円」
と書き入れ総理官邸にかけつけた。ちょうど7時50分、閣議開始の10分まえだった。あのとき、彼の机の引き出しがロックされていたら、いったいどんなことになっていただろうかと思うと冷や汗が出る。